vol.89 ケアとコーヒーのためのメモ その1
コーヒーにはケアがあると感じている。
けれどケアとコーヒーってどんな風につながるんだろう?
単純に日々飲んでいるときにふと癒されたとかホッとした「感じ」を思い出してみると、コーヒーにケアされたと感じることはあるように思う。
あるいは誰かがが淹れてくれたコーヒーがおいしいなと感じた時を思い出しているのだろうか?
なんだかそうやって考えていけばいくほど何か特別なことのように思えてくるのだけれど、それだと少し違うように感じる。
たぶんコーヒーとケアがつながるのは生活という一点だと思う。それは日常というよりは生きるということに近いものとしての生活だと思う。
僕らは日々生きている。寝て起きてご飯を食べて生活している。
そのどれもがケアになり得るものだ、人が感じることのできるあらゆる物事がケアを含んでいる。
ケアはそもそも特別なことではない。ありふれたもののはずだ。
だからただの水でさえというより、ただの水だからこそケアになる場合もある。
コーヒーだってそれと同じようにケアの成分を含んでいるのではないのか。
人はコーヒーを飲んで癒されたとかホッとしたと感じることができるし、人に淹れてもらったコーヒーにも癒されたとかホッとしたと感じることができる。
コーヒーが嫌いだったり体調が悪ければそれ以外のものにケアされることだってできる。
ケアとコーヒーはそういうものだと思う。
けれどもこう言いながら何だか少し足りないように感じている自分がいる。
ケアとコーヒーはそれだけではないはずだと感じている。
この文章をしばらく寝かせてぼんやり考えて出たことのとりあえずの自分なりの応えはこうだ。
コーヒーもケアも共に空虚なものだ。
コーヒーには酸味や苦み、甘みといったいろいろな味や風味があるけれど、自分の中ではそれだけではないところに肝心の一つがあると思っている。
そのきっかけは以前「糖分由来ではない甘さ」について質問したことだ。
その時3つの候補を想定していて一つはカリウム、一つは何かの成分が擬似的な形を取って消えるというもの、そしてもう一つは自分の唾液だった。
返答は以下に挙げておく。
https://twitter.com/y_tambe/status/1441606179612889093?s=21&t=52sI6GEBSJ3lG9e6IQ7Vaw
残念ながら、科学的な根拠として推せるとは言えないものらしい。
推測の域を出ないけれど、あったものが無くなることで起きる現象という可能性は興味深いものだった。
コーヒーそのものだけではなく、コーヒーを飲む側にも謎の甘みを感じる仕組みがあるかもしれないというのは盲点だった。
コーヒーにはまだまだ分からないことがたくさんあるし、その味を感じるプロセスだけでも複雑で細かな部分もあるようだ。また科学的な視点も大切だけれど、それだけがコーヒーをおいしいと感じる要素ではない。
そして一方のケアは、先に挙げたように本来的にいろいろなものがケアになり得ると書いたけれど、それはケアを受ける側のニーズによって成立している面もある。
一見するとそうとは見えないものからも人はケアされることがある。
だからそもそもケアとはこうである、というケアそのもの、ケアする側の仕組みだけではなくケアを受ける側の人にもケアになる可能性があって、それを含めて人はケアと呼んでいる、と考えている。
周りくどい言い方だが、ケアという言葉そのものは例えば「箱」になっていて、中身は人と人(あるいは人ではないものと人)との相互作用の結果として表れていると考えれば実際に近いのかもしれない。もちろん仕事としての専門領域でのケアは定義づけがなされているし、更新し続けてもいる。手順を踏んだケアも必要とされている。
けれどもケアの中身そのものは分かっていることもある反面小さくて見逃しているものがたくさんある。実際に私たちは日々いろないろなものにケアされている。
だからこそ、私がやっているコキュウコーヒーはコーヒーとケアを空虚さでつなげる。
虚を一つずつ丁寧に汲んでその中にいろいろなものを注ぎこめるように、それがあなたの呼吸になれるように。
コキュウコーヒーはミッションの一つとして、コーヒーとケアの可能性を開いていきます。