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vol.88 コーヒーの神様

自分は「コーヒーの神様」と呼ばれたことがある。

 

きっかけは一時期ボランティアで介護施設にコーヒーを淹れに行っていた時、職員の方からそう言われたこと。

 

言われた当初、「やめてほしい」と言っていた。理由はいくつかある。

「じぶんよりすごい人はたくさんいる」

「コーヒーは淹れに来たが何かを”してあげる”ために来たわけではない」

「名前で呼んでほしい」

くらいのことを意識していたし言ってもいた。

 

その後職員には「コーヒー王子」と呼ばれるようになる。

 

それもけっこう嫌だったのだが、埒があかないので「王子じゃねーよ」と近藤春奈ばりにツッコミつつもその言葉を受け取ることにした。

 

世の中には対外的に「神様」とまで行かなくとも、ある種のレジェンドとしての役割を引き受けている人もいる。

 

おそらくそこまで意識しないか、あるいは無意識レベルまでその役割を浸透させている人もいる中で、自分も社会的な役割を与えられたのだろうということでそういう納得のさせ方を自分にしていた。

 

何より一番理解し得たところは「分かりやすさ」は記銘力、つまり記憶しやすさにも繋がるからだ。ここは認知症の利用者がいる介護施設だ。おそらく周りのスタッフはそうした「覚えやすさ」を重視していたのかなとも考えていた。

 

結局座りの悪いままだがコーヒーは淹れねば、と脇に置いていた。

 

なんとも言えない「モヤり」が残り続けていて、つい最近とある方の話を聴いていたときにその時の違和感を立ち昇らせる言葉が出てきた。

 

「他人を神にしたいというときに、それは究極に他人を利用しているっていう風に思っている」

 

この言葉それ自体は違う文脈で出てきたものだが、なんとなくリンクするものがあるなと感じている。たしかに記憶に残りやすくする印象操作だし、自分の認識とズレもある。

 

要は「自分が自分として見られずに違う何かとして見られることへの違和感」があったんだと思う。

 

ナイーブだろうか?現実的に考えるならば、ある種のサービスを業として行っている場所で甘い考えだと切り捨てて良いものだろうか?

 

自己と他者が違う存在という意味で同じ人間ではないのは自明の理で、認知症の人とそうでない人を比べるとそうでない人のほうが「ある種のパワー」を持っているというのはその通りだが、それでもなにか腑に落ちなさがある。

 

福祉的に考えるならば、逆に利用者を「~ちゃん」とちゃん付けで呼ぶのは今は良くないこととされている。過度なカジュアルさは利用者の人権を損なう虐待につながるからだ。

 

外から見ると杓子定規に考え過ぎといわれるだろうが、簡単に損なわれてきた経緯がある。

 

逆に他者を不用意に特別視する「記銘」も誤った方法だと私は考えている。そもそも崇め奉らなくとも良くて、もっと言えば記憶に残らなくても良いと考えている。

 

僕が勤めていたお店の店長は「料理のいいところは、最後何も残らないところ」と言っていた。何も残らないのはなんだかとても寂しいなと当時は感じていたし、今も惑うときはあるが、日々を過ごす中で折に触れてその言葉を振り返るときがある。

 

何も残らなくてもそこに大事にしたいものがあると私は信じている。