トリしらべぇ。

いろんなところにアンテナを張って、情報の風をキャッチします。

vol.93 森さんのドリップを自分なりに考えてみた。

どーもこんにちは。

 

その昔とあるドリップに熱中していたことがあり自分なりにあれこれ考えたのでお焚き上げがてらこちらに書いておきます。

 

概ねこんな感じでした。

https://twitter.com/wondervogel0327/status/1401149714129555458?s=20&t=-9So0No6T0e1xrSVf0EWCQ

秘密のすごい技術というものではないし、これだけであらゆるものに対応できるわけではないけれど、ごく個人的な興味関心から出発したものなのでこちらにまとめておきます。

 

雑感:今のコーヒーからみるとかなりカジュアルな淹れ方をしている。むらしは10秒程度で終わるし全部の工程合わせても1分26秒くらいで淹れ終わるし、早い。18g180㏄だったので濃度で味を稼ぐ感じだろうか。ドスンと淹れてサッと終わらせることで恐らく嫌な味をできるだけ出さないようにしていたように感じる。

 

〇なぜこの淹れ方になったのかは不明だが、個人的にはコーヒーだけではなく料理にも興味をもっていたため兼ね合いもあったのだろうか?オペレーションがすごいことになていた。

 

〇その中にも細かな部分で技術の上達や変更はあったようで僕がやっていたものより粉の膨らみ方が入るお湯の量に比べて大きくなっていて(ガスの抜けを阻害させてない)、水の勢いも本抽出では結構殺せていたようにみえた。当初は本抽出は一点抽出だったものが、後に少し回して淹れていた。特徴として濃さはあるけど割合後半の味はあっさりしていたものではあった。

 

弱点:浅煎りには向かない。多分ドリッパー内の水位をもっと上げないと濃くて酸味がきつく仕上がったりするし全体にいきわたるお湯がすくないのではないだろうか。深煎りでは濃いけど後半はあっさりしたものになる。

細やかな部分は出にくいけれど気楽に飲むにはこういう淹れ方のも良いと思う。

 

淹れ方を見てこういう狙いや目的なのではという考察あればご意見ご感想お待ちしております。

vol.92 コーヒーとケアのためのメモ その4

前回はコーヒーとケアの「ケア」について書いてみた。

 

今回は僕の想像の話。

 

ケアというと傷ついていることが前提になっているけれど、そもそも僕の心は大小様々な形の穴が開いている。

 

ケアそのものは傷を塞ぐ役割をしつつも、同時にその過程で穴を通じて人と人、人と物は交流することもできる。「重なる」と言ってもいい。

 

そうすることで、穴以外が変わる。

 

それはとても小さなものかもしれない。

 

変わった先でまた、穴を通して交流していく。

 

そうして僕は新たな自分を見つけていくし、他の人にもそれまでと違った面を見ていくことができる。

 

同じように接していても、らせんを描くように変わる。

 

コーヒーを飲むことを通してホッとすることはそうした変化につながる。

 

安易な癒しを急がず、ふと飲んだコーヒーが日常の小さな変化になる。

 

コーヒーとケアはそんな風に小さくて見えないけれど確かにそこにあるものだと思う。

vol.91 コーヒーとケアのためのメモ その3

前回までは簡単な標語のようなものを考えていたけれど、そもそも「コーヒーとケア」の「ケア」ってどういうものがあるのだろうか?

 

ケアってなんだ?

 

簡単にいうと「コーヒーに(私が)癒されたい」ということだと思う。

 

それって具体的に何をしたらいいの?

 

いくつか考えてみよう。

 

例えばコーヒーを飲む。

これはコーヒーを飲んで香りや味を感じる。

 

コーヒーを淹れるのはどうだろう。

コーヒーを自分の手で淹れる。粉が膨らんだり(膨らまなかったり)、お湯がコーヒーの色になってポタポタと下に落ちてツーっと溜まってくる。

 

コーヒー豆を焙煎するのは?

コーヒー豆が飲めるようになるまでに変化する豆の様子を観察して、段々香りがしてくる。豆のシャカシャカという音が聞こえる。パチパチと音がする。

 

簡単に挙げてみた。

 

あれ?これってケアは関係ないんじゃないの?

だってさっき挙げたのはコーヒーのことでしょう?

 

じゃあなんで「癒される」の?

 

「癒される」ってどういうことだろう?

 

もう少し考えてみよう

 

僕は心が満たされると「癒された」と感じることがある。

 

だから「癒される」というのは僕の心のことだ。

 

コーヒーとケアには心が関わってくる。

 

コーヒーを飲む、淹れる、焙煎する時、僕の心が満たされる。

 

香りや味を感じ、お湯がしたたり落ちるのを見たとき、焙煎の音が聞こえるとき、僕の体を通して心が満たされる。

 

心が満たされたときに僕は「癒された」と感じる。

 

「癒される」と苦しみや悲しみ、疲れを和らげたり、感情を穏やかにして安心を感じて、くつろいだ状態になる。

 

ホッとする。

 

だから、コーヒーによって僕はケアされることができる。

 

どうだろう?おかしなことを言っていないかドキドキしてきた。

 

とりあえずコーヒーを飲もう。

vol.90 コーヒーとケアのためのメモその2

さて、前回はとてもとても分かりにくい文章を書いてしまった。書くこともマーケティング的にも0点だ。

 

こういう時はまず基本に戻ろう。

 

基本の一つは「分かりやすい言葉で書く」だ。

コーヒーとケアで分かりやすいキーワードは何かないかなぁとぼんやり考えていた。

 

そういえば、僕はケアを見たり経験して、どういうふうに感じてたっけ?

 

 

先ず第一に、普通に人と始めて会ったら僕はとりあえずこの人どんな人?と考えていた。

 

少し距離を置いたり、声掛けしながらおおよその人となりを見て接していた。だからその人の普段の仕草、癖、何に興味があって、どんなことが好きそうか、だいたい把握しようとしていた。

それにその人の持っている能力や個性をみて、関わりながらできることやりたいこと得意なこと苦手なことを把握していた。

 

ふーん僕はそういう感じで接していたのね。

 

じゃあこういうのはどうだろう?

ケアの役割の一つに「その人が元々持っている個性や能力を活用する」というのがある。

 

これってつまり「引き出す」とも言えるんじゃないかなぁ?

おぉ、なんか良いな、わかりやすい。

 

コーヒーも豆の個性を引き出すなんて言い方するな。スタイルは様々だしアレンジドリンクもあるけれど、みんないろんな土地の色んなコーヒーを育てていて、品種ごとに違いもあると。

 

ふむふむ、それじゃあこういうのでどうだろう。

 

コキュウコーヒーはミッションのひとつとして、ケアとコーヒーの関わりを通してあなたの元気を引き出すことを目指します。

 

前より分かりやすいけれど、どうだろう?

 

まだまだ推敲は終わらない。

 

vol.89 ケアとコーヒーのためのメモ その1

コーヒーにはケアがあると感じている。

 

けれどケアとコーヒーってどんな風につながるんだろう?

 

単純に日々飲んでいるときにふと癒されたとかホッとした「感じ」を思い出してみると、コーヒーにケアされたと感じることはあるように思う。

 

あるいは誰かがが淹れてくれたコーヒーがおいしいなと感じた時を思い出しているのだろうか?

 

なんだかそうやって考えていけばいくほど何か特別なことのように思えてくるのだけれど、それだと少し違うように感じる。

 

 

たぶんコーヒーとケアがつながるのは生活という一点だと思う。それは日常というよりは生きるということに近いものとしての生活だと思う。

 

僕らは日々生きている。寝て起きてご飯を食べて生活している。

 

そのどれもがケアになり得るものだ、人が感じることのできるあらゆる物事がケアを含んでいる。

 

ケアはそもそも特別なことではない。ありふれたもののはずだ。

 

だからただの水でさえというより、ただの水だからこそケアになる場合もある。

 

コーヒーだってそれと同じようにケアの成分を含んでいるのではないのか。

 

人はコーヒーを飲んで癒されたとかホッとしたと感じることができるし、人に淹れてもらったコーヒーにも癒されたとかホッとしたと感じることができる。

 

コーヒーが嫌いだったり体調が悪ければそれ以外のものにケアされることだってできる。

 

ケアとコーヒーはそういうものだと思う。

 

 

けれどもこう言いながら何だか少し足りないように感じている自分がいる。

 

ケアとコーヒーはそれだけではないはずだと感じている。

 

この文章をしばらく寝かせてぼんやり考えて出たことのとりあえずの自分なりの応えはこうだ。

 

コーヒーもケアも共に空虚なものだ。

 

コーヒーには酸味や苦み、甘みといったいろいろな味や風味があるけれど、自分の中ではそれだけではないところに肝心の一つがあると思っている。

 

そのきっかけは以前「糖分由来ではない甘さ」について質問したことだ。

 

その時3つの候補を想定していて一つはカリウム、一つは何かの成分が擬似的な形を取って消えるというもの、そしてもう一つは自分の唾液だった。

 

返答は以下に挙げておく。

 

https://twitter.com/y_tambe/status/1441606179612889093?s=21&t=52sI6GEBSJ3lG9e6IQ7Vaw

 

残念ながら、科学的な根拠として推せるとは言えないものらしい。

 

推測の域を出ないけれど、あったものが無くなることで起きる現象という可能性は興味深いものだった。

 

コーヒーそのものだけではなく、コーヒーを飲む側にも謎の甘みを感じる仕組みがあるかもしれないというのは盲点だった。

 

コーヒーにはまだまだ分からないことがたくさんあるし、その味を感じるプロセスだけでも複雑で細かな部分もあるようだ。また科学的な視点も大切だけれど、それだけがコーヒーをおいしいと感じる要素ではない。

 

そして一方のケアは、先に挙げたように本来的にいろいろなものがケアになり得ると書いたけれど、それはケアを受ける側のニーズによって成立している面もある。

 

一見するとそうとは見えないものからも人はケアされることがある。

 

だからそもそもケアとはこうである、というケアそのもの、ケアする側の仕組みだけではなくケアを受ける側の人にもケアになる可能性があって、それを含めて人はケアと呼んでいる、と考えている。

 

周りくどい言い方だが、ケアという言葉そのものは例えば「箱」になっていて、中身は人と人(あるいは人ではないものと人)との相互作用の結果として表れていると考えれば実際に近いのかもしれない。もちろん仕事としての専門領域でのケアは定義づけがなされているし、更新し続けてもいる。手順を踏んだケアも必要とされている。

 

けれどもケアの中身そのものは分かっていることもある反面小さくて見逃しているものがたくさんある。実際に私たちは日々いろないろなものにケアされている。

 

だからこそ、私がやっているコキュウコーヒーはコーヒーとケアを空虚さでつなげる。

 

虚を一つずつ丁寧に汲んでその中にいろいろなものを注ぎこめるように、それがあなたの呼吸になれるように。

 

コキュウコーヒーはミッションの一つとして、コーヒーとケアの可能性を開いていきます。

vol.88 コーヒーの神様

自分は「コーヒーの神様」と呼ばれたことがある。

 

きっかけは一時期ボランティアで介護施設にコーヒーを淹れに行っていた時、職員の方からそう言われたこと。

 

言われた当初、「やめてほしい」と言っていた。理由はいくつかある。

「じぶんよりすごい人はたくさんいる」

「コーヒーは淹れに来たが何かを”してあげる”ために来たわけではない」

「名前で呼んでほしい」

くらいのことを意識していたし言ってもいた。

 

その後職員には「コーヒー王子」と呼ばれるようになる。

 

それもけっこう嫌だったのだが、埒があかないので「王子じゃねーよ」と近藤春奈ばりにツッコミつつもその言葉を受け取ることにした。

 

世の中には対外的に「神様」とまで行かなくとも、ある種のレジェンドとしての役割を引き受けている人もいる。

 

おそらくそこまで意識しないか、あるいは無意識レベルまでその役割を浸透させている人もいる中で、自分も社会的な役割を与えられたのだろうということでそういう納得のさせ方を自分にしていた。

 

何より一番理解し得たところは「分かりやすさ」は記銘力、つまり記憶しやすさにも繋がるからだ。ここは認知症の利用者がいる介護施設だ。おそらく周りのスタッフはそうした「覚えやすさ」を重視していたのかなとも考えていた。

 

結局座りの悪いままだがコーヒーは淹れねば、と脇に置いていた。

 

なんとも言えない「モヤり」が残り続けていて、つい最近とある方の話を聴いていたときにその時の違和感を立ち昇らせる言葉が出てきた。

 

「他人を神にしたいというときに、それは究極に他人を利用しているっていう風に思っている」

 

この言葉それ自体は違う文脈で出てきたものだが、なんとなくリンクするものがあるなと感じている。たしかに記憶に残りやすくする印象操作だし、自分の認識とズレもある。

 

要は「自分が自分として見られずに違う何かとして見られることへの違和感」があったんだと思う。

 

ナイーブだろうか?現実的に考えるならば、ある種のサービスを業として行っている場所で甘い考えだと切り捨てて良いものだろうか?

 

自己と他者が違う存在という意味で同じ人間ではないのは自明の理で、認知症の人とそうでない人を比べるとそうでない人のほうが「ある種のパワー」を持っているというのはその通りだが、それでもなにか腑に落ちなさがある。

 

福祉的に考えるならば、逆に利用者を「~ちゃん」とちゃん付けで呼ぶのは今は良くないこととされている。過度なカジュアルさは利用者の人権を損なう虐待につながるからだ。

 

外から見ると杓子定規に考え過ぎといわれるだろうが、簡単に損なわれてきた経緯がある。

 

逆に他者を不用意に特別視する「記銘」も誤った方法だと私は考えている。そもそも崇め奉らなくとも良くて、もっと言えば記憶に残らなくても良いと考えている。

 

僕が勤めていたお店の店長は「料理のいいところは、最後何も残らないところ」と言っていた。何も残らないのはなんだかとても寂しいなと当時は感じていたし、今も惑うときはあるが、日々を過ごす中で折に触れてその言葉を振り返るときがある。

 

何も残らなくてもそこに大事にしたいものがあると私は信じている。

vol.87 コーヒー抽出会

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コーヒーのいろんな道具達、見てるだけでも楽しい。


どーも、こんにちは。

 

今回は8月末に開催したコーヒー抽出会のレポートをします。

 

きっかけは7月の末に僕が唐突に「コーヒー抽出会をしたいです」とつぶやいたところからです。

 

そんないきなり募集にも関わらず、なんと三人の方が参加表明してくれました。

 

先ずはお三方をご紹介。

 

フクラムさん…キャワイイショップアイコンが目印のロースターさん、コーヒーブーケに魅了されること間違いなし

 

teraさん…美味しそうな素敵写真も撮るバリスタさん、その料理…食べさせて…

 

donateさん…海外の焙煎情報にも触れたdonate coffee blogを書いてるバリスタさん、RoRの話や水分量の話とかめっちゃ見てました

 

そしてワタクシ、wondervogelことトリ!

 

という4名です。

 

基本的にはフリーダムに皆さんにコーヒーを淹れてもらって、みんなでワイワイ楽しみつつコーヒーを飲む、というほのぼの企画です。

 

個人的には普段気になってることを聞いたりやったりしてみたかってん。

 

とはいえ何かを企画するの久しぶりなんでちょっと緊張。

 

場所や時間、道具の確認など、諸々準備している時間はワクワクしたり抜けがないか確認したり。これもイベントやる側ならではの感覚ですね。

 

 

さて、日にちは過ぎてイベント当日、場所は都内某所。

 

この日donateさんは残念ながら欠席、またの機会にお会いしましょう!

 

そして三名で開催となりました。

 

 

 

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僕はさかいさんとこのハウスブレンド


ということで初手、僕です。

 

普段やらない、(というかムズくてできない)水を高く上げて粉のカサを高くする淹れ方をしました。(写真撮り忘れました)

 

結果は…うーん薄い…

 

と、ここでフクラムさんが「せっかくだから三人で同じ豆淹れあいっこしましょ」と提案してくれました。

 

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みんなで淹れてみんなで飲む!楽しい

 

同じ豆でも淹れ方が違えば味も変わるということを実際にこうやって体験するのもまた楽しいです。

 

ちなみにこの日フクラムさんにお茶受けを用意していただきました。

遠慮なくパクつく僕、オイシー!タノシー!(おい)

 

続いて、teraさんの持ってきたお豆さん

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インドネシア、マンデリンG1スマトラ リントン、スマトラの虎ですね(言いたい)

袋が二重だ!とパッケージも話題になりました。こういった点に注目して話ができるのも面白いです。

 

インドネシアの豆ということで、ちょっと草っぽい独特の風味をどう活かすか、という点が話題になりました。

 

teraさんもワクワクしながら丁寧に淹れていました。

 

あ、僕は野性味溢れる「めっちゃ草」感なコーヒーできました。

 

 

そして最後にフクラムさんのターン!

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フクラムさんとこのお豆さんズ、キャワワ

みんなカフェインで良い具合にキマっているところ、ここで華麗にデカフェをステンバーイ…

 

香りと甘みにズキューン!!!

 

カフェインが苦手な方もそうでない方も、是非飲んで欲しいです。

 

ちなみにお土産にいただいたエチオピア ガレ ウオッシュトに後日再度ズキューンされました。開けてしばらく豆をスーハ―嗅いでました笑

 

と、そうこうしているうちに時間が迫ってきました。

 

「エンジンが良い具合に温まってきたんですけどねー!」

「もっと話したいですねぇ」

などなど、こうしてお話をする機会って貴重なようで

 

折に触れてこういう集まりがあると楽しいですね、また企画したり、行ったりしたいです。

 

そんなこんなで約二時間のイベントだったわけですが、あっという間でした。

 

この度は僕の願いに応えていただき、皆さん本当に、本当にありがとうございます。

 

今日はこの辺で。