トリしらべぇ。

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vol.13 画一化と特殊化のはざまで揺れ動く味覚の未来その7(総括:僕にとっての画一化と特殊化とは何かを考えてみた)

こんにちは

 

 さて、前回までで足かけ6回ほどの記事を書きましたので、ここらで少しまとめようと思います。

 

 知っている人にとっては、何を今さらな内容でもあるのですが、個別具体的には、「それはそうなんだけど最近はこんなことも出てきたよ」ということもあり、その辺の「今」を自分の中でストックとして持っておきたいこともあって書き進めてきました。

 実際の現実では、画一化されたと思われていたものからまた新たな方向性が見出されたり、特殊化の果てにタコつぼ化しゆるやかな死が待っているかと思いきや、一部が突然変異し普遍化したりするわけで、そう簡単に二項対立で説明し尽くせるものでもないのが、なかなかダイナミクスを感じさせてくれます。

 

 改めて思うのは、食に関わることが人間にとって生きる上で必要なことである以上に、文化的なエッセンスとして大きな役割を担っているということであります。

 

 それは、個人の生活する上での価値基準の一つの指標でもあり、表現でもあるわけです。

だからこそ、facebookに日々アップされる食べ物の写真があり、cookpadのような集合知が形成さ得るのではないでしょうか。

 今回は取り上げておりませんでしたが、例えばWIREDさんの記事を読めば、もっと過激にコーヒーや料理を「イノベーション」の名の下に最新のテクノロジーを駆使して変化させている事例もあるわけで、こうしている今も、食を取り巻く状況は日々刻々と変わっているのだなと感じさせられていたりもします。

 ですが、特段そうした目新しさに目を奪われなくとも、例えば家庭の台所に立つ人はその時その時の旬の食材を取り入れたり、もっと美味しく食べてもらえるようにと何か調理法を変えてみたり、毎日「イノベーション」している現実があり、僕はそうした現実を忘れず、日常生活を淡々と生きることから始めたいなと思う次第であります。案外きちんと生活するって難しいことで、なかなかできるこっちゃないが故に。

 とかのん気に言ってると、あれが嫌い、これが食えないとかレジストされたりするわけですが、それもまた日常の妙でありましょう。黙って食えと言ってみたり、何かひと手間加えて試してみたりしながら、作る人と食べる人のささやかで小さな戦い(あるいは対話)がこんなにも大きなことであると振り返って気付かされたことは大きいです。

 

そして別に味覚に限ったことではなく、むしろ我々は日常的にある種の画一化と特殊化の波にさらされているわけでして。

 

 それは生物の進化の過程そのものであったり、人間社会の成立過程であったり、科学技術の発達であったり、宗教も多くの流派が成立していることを考えると、僕らは絶えずその流れの中であっちへフラフラこっちにフラフラしているのかなと思います。

 ゆく川は絶えずしてしかも元の水に非ずなのかもしれませんが、より大局を見れば、一筋の流れがそのうちに分かれたり、くっついたりしながら、そのうちに海洋に出て蒸発して雲になり雨になり、またどこかに落ちてを繰り返しているだけなのかもしれません。

 

 

 でもその底流(under current)には、案外変わらないものもあるのではないかな。

 

話も底をついたんで今日はこの辺で。